先月、父が亡くなった。
長患いだったので本人も家族はそれなりに覚悟ができていて、しかも亡くなる数週間前までは歩行器付きで歩いていたらしいし、二日ぐらい前までは意識もあったので、全体にショックの少ない、「そうか……」という感じの最後だった。
以下は気付いたことのメモなど。
- 遺言で「無宗教」「家族葬」だったので、びっくりするほど楽だった
- 人が多いと面倒や気を使うことが増えるが、家族だけなのでそれがない
- 宗教がらみの約束事がない→細かいことを気にしない
- 故人がそれなりに高齢(80代)だと兄弟なども高齢(上は90代)なので、呼ばずにすませる
- 四十九日とかも関係ないので「だいたいで」みたいな感じで話がまとまる
父は研究者だったせいか、引退後に家にこもっていてもまったく平気で、とくに近所づきあいなどもなく、近隣の知人を呼ぶ必要もなかった。なので、告知も最低限で済んだ。
住んでいるところが地縁血縁のある場所だとこういうわけにもいかなかったのかもしれない。
介護で疲れていたであろう母にあまり負担がかからなかったという点でもよかった。
子供(6才)には「おじいちゃんは亡くなった。つまり死んだ。星になったとか霊になったとかそのへんに浮かんでるとかいろんな説があるが、父はよく知らん。ただもう会えない、そういうことだ」と説明した。どう理解したかわからないけど、「あたしはいいけど、パパのお父さんだから、パパは大丈夫?」と心配された。大丈夫だ。
斎場での待ち時間にスマホで『ヒトラー最期の12日間』を観る母、ポケモンGOについて話す姉弟。
父が安置されている部屋のことを考えて「蒸し暑くないかな」とか考えるのが不思議だった。死を受け入れていないわけでもないのに。
火葬したあともそういう考えがたびたび浮かんで「骨でも暑いのでは」みたいなことを考えた。
あと、かなりの割合で「父の死」というより「子供にとっての祖父の死」という捉え方、受け止め方をしている自分に気付いた。
父親のiPadのアプリを整理している時に(今度は母親が使うので)、あーこれも遺品整理かと思った。妙な感じだった。
PC周りやApple idなどはきちんとメモが残っていて助かった。
よく言われるように、葬儀よりもそのあとの諸々の手続きが大変で、役所は必要な手続きだけじゃなくて、「手続きに必要な書類一覧」とかもちゃんと(市役所サイトに)掲示してほしいと思った。